無敵の天才神童は中二で朽ち果てた

自分の全盛期とはいつだったのだろうか。中学受験本番に向けて学力的に仕上がっていた小6の冬は全盛期だったと言えるだろう。親戚や地元、塾といった狭い範囲では天才だと持て囃され、調子に乗った少年のペンは止まらなかった。第一志望だった都内の中学には届かなかったものの、小学校の同級生の中では一番偏差値の高いであろう県内の中学に入った。

そして、その時、私の中の辞書から努力という言葉が消えた。いい感じの中学に入るという当時の自分にとっては大きな目標が達成されたことで努力する目的と目標を見失った。さらに、受験中封じていたゲームや、新たに知ったインターネット上の娯楽の数々を前にした時、高校受験が無いという気の緩みも合わさり、ほとんど勉強をしなくなった。一度失った勉強の習慣は中々戻らず、その後浪人中も含め本気で勉強をしたことがない。その後は一浪したものの、惰性で聞いていた中高と予備校の授業のわずかな記憶で大学受験を乗り越え、大学に入ってもなんとなくで勉強してなんとなく単位を取り、落とした単位もあったが留年や再履修といったトラブルもなく、なんとなく卒業研究に進んでしまった。就活もあっさり終わり、周りからは「すごいね」言ってもらえるくらいの結果にはなったが、それも人手不足気味で専門的な分野であるという利点と、無いことはないコミュニケーション能力、大学のまあまあの偏差値に助けられただけで、後は全て行き当たりばったりだった。ここまでの振り返りの通り、中学以降本気で努力していない。多少の運の良さもあっただろうが、言ってしまえば、小6の時の栄光の残滓に縋って生きているだけである。

しかし、埋め尽くされているとは言えない程度の運、子供の頃の数年分の努力では未来はA BEAUTIFUL STARとはならない。就活の際、職種によってはエントリーシート提出の段階で落ちてしまい、調べてみると旧帝大以外は落ちるといったネット上の書き込みを見ることもあった。既にそこにはどうしようもない高さの学歴の壁があった。母校の進学実績的に、中学一年の段階ではその壁を超えられるだけのポテンシャルは持っていたはずだが、積み上げたもののない私には不可能なことだった。幾らでも軌道修正の機会はあったはずなのに、親の資本で敷いてもらった道をどんどん踏み外していき、就活の段階になってようやく自分の目指せる場所の限界を知った。第一志望を逃した中高の同級生たちの中には、無事学歴ロンダリングを成功させた人たちもいるが、私には彼らのように努力をするための気力はもう無かった。

私はどの時点であれば大きな努力を要さずにまともな道に戻れたのだろうか。高校に入り、英語のあまりにも酷い成績から担任の先生に予備校に行くことを勧められた際、既に多少の努力だけでは軌道修正が効かないことをわかってはいた。それから多少の努力をしてみたが後の祭り、悪あがき程度でしかなく、結果を残せる程の努力をする気は起きなかった。私のやる気スイッチは錆びついて取れかけていたのだ。この結末を変えるには結局初めが肝心で、中学生の段階で「最低限の勉強はしなさい」という大人の言葉を素直に守っていれば良かったのだろう。もし人生リセットボタンのようなものがあれば私は中学に入る頃に戻りたい。

「はい論破」の異世界転生

私は中高6年間を極度言論暴力世界で過ごしたので、議論と言えば根拠を用いて論破するものだと思っていた。しかし、大学に入ってみるとあの中高がイカれた場所だったんだと気づかされた。

大学での授業内グループワークなどを通して、世の中の議論というものは基本的に相手を論破するものではなく、意見をゆるっと混ぜ合わせ、折り合いをつけるものだということを知った。論破が前提条件にない世界で根拠を揃えたカードバトルを始めると、相手が根拠のカードを揃えきっている訳もないので、お互いが自分の土俵に引きずり降ろそうと無駄な争いをして終わるだけだ。ここで、争いを避けつつ違う次元に住む人間を納得させるには、ずば抜けた論理的説明能力であったり、強力な統率力のようなものが必要なのだろう。

「はい論破」の常用はお互い慣れているインターネット上に留めておいた方が良さそうだ。

その瞬○みたいな運動靴を投げ捨てて底が平たいスニーカー買ってこい

この話は、昨日のTwitter上での「縮尺を大人にしただけの小学生みたいな服装」という話の続きである。

https://twitter.com/i_am_not_rice/status/1532290300190035968?s=21&t=nEF6hWoAooKfr1t9qFpEbA

私が通う大学は、ネット上ではチェックシャツ着用率が高いと言われるが、実際にチェックシャツを着ている人はそこまで多くはない。しかし、運動靴着用率は非常に高い。オタクっぽい服装の特徴を調べれば、すぐにチェックシャツと運動靴が出てくるにも関わらず、運動靴を履く人が多い。ネットミームを気にしたのか、チェックシャツではなく無地のシャツを着ていても、靴が運動靴なため、消えないオタク感が滲み出ている人が多い。せっかく無地の服を着ることには成功したのに、靴が全てを台無しにしている。常に背中を丸め、下を向いて歩いているのに、自分の足元は見えていないのだろうか。無地の服を着るという段階にたどり着けたなら、底が平たいスニーカーを履けばもう少しマシな見た目になるだろう。すぐにでもその瞬○みたいな運動靴を投げ捨てて底が平たいスニーカー買ってこい。

サッカーへのヘイトが高い話

インターネット上には、度々サッカーへのヘイトが高い人間が出現する。かく言う私もサッカーが嫌いである。

何故私はサッカーが嫌いなのだろうか。

まず、私は体を動かすこと自体は嫌いでも苦手でもない。放課後に友人と卓球やバドミントンをしていたこともある。また、体育の授業は雑談できることもあって割と好きだった。そうなると運動嫌いではない別の理由があるはずだ。

また、モータースポーツの観戦にも行ったことがあるし、流行りのeスポーツの大会も見たり、オリンピックも楽しく見ていることから、スポーツが嫌いというわけでもない。

次に、民度の観点から考えよう。サッカーの試合では観客の暴動がニュースになることもあるが、野球などでも暴動は起きるし、eスポーツの大会配信のコメント欄も度々荒れることから、サッカー好きだけが特別民度が低いというわけではないだろう。

では、誰もが経験した体育の授業はどうだろうか。思い返すと、体育のサッカーは他の球技よりもつまらなかった。何故体育の授業においてサッカーだけクソつまらなく感じたのだろうか。

楽しくなかった原因について、試合への関わり具合を考える。まず、陸上競技や水泳はタイムを競うことはあるが、基本己との戦いであるため、関わり度は100%と言えるだろう。水泳の授業はひたすら泳ぎ続けていたため、疲れはするがつまらなかった記憶は無い。

次に球技について考える。球技の場合、複数人で球1つを使った試合になり、ボールと関わらないことで試合に関わらない時間も多くなる。ここでは体育で行われがちな球技を考える。まず、卓球やテニス、バドミントンは1対1や2対2なので球に必ず触れることになるだろう。また、バスケットボールは1チーム5人なので、コート上では10人で1つの球を追い回すことになるが、ダブルドリブルといった禁止事項のお陰でパスが回ってくる機会もあるため、ボールに触れずに試合が終わることは少ないだろう。さらに、バレーボールは6人1チームだが、サーブが回ることと、飛んできた球を複数人で打ち返すことから、球に触れる機会は何かしらあるだろう。

ここまで様々な競技について見てきたが、サッカーの関わり度はどうだろうか。 サッカーの授業は、1つの球を追い回し、終わりなきシャトルランをしていた記憶しかない。球を蹴る競技なのに、球を蹴った記憶があまり無い。サッカーは1チーム11人、コート上に22人もの人間がいて、ゴールキーパーを差し引いても20人で一つの球を追い回しているので、球に触れる機会が少ないのは当然である。しかも、スポーツウェイの単騎突撃が横行する体育サッカーにおいて、我々陰の者は球に関わることのない動くカカシに過ぎない。ただのカカシなら止まっていても変わらないはずだが、コートの反対側で立ち止まっていようものなら、チームのスポーツウェイからは球を追いかけさせられ、教員からは成績が容赦なく下げられる。そして無意味なシャトルランを繰り返す中で無関係なところで得点が入り、スポーツウェイだけが盛り上がる。我々は球技やってる感はゼロな上に無駄な疲労は溜まり、ウェイの盛り上がりを眺めるだけである。これだけの理由があれば、サッカーを嫌いになるには十分だろう。

ここで、今回この記事を書くきっかけとなった、4月27日のとある新聞記事を紹介する。

https://www.asahi.com/articles/ASQ4V621HQ4QUTQP00P.html

この記事では、サッカーが嫌いな子供が増えていて、その主要因を「ボールが硬くて当たると痛いこと」としている。対策として、柔らかい新聞紙の球を使ったサッカーを行うことで、子供達の苦手意識を無くそうとしている。しかし、記事の中でも触れられているように、ボールに触れたことで楽しいと感じた子供がいる。そして、多くの人が体育のサッカーを嫌いと感じ、サッカーそのものが嫌いとなる原因は、その球技をやってる感の無さなのではないだろうか。これ以上悲しき少年少女を生み出さないためにも、本質を見極めて対策をして欲しいと思う。

UNO麻雀

皆さん、UNOで麻雀をしたことはありますか?

いきなりUNOと麻雀という2つの異なるテーブルゲームを並べられて訳がわからないですよね。もっと正確に表現すると、UNOのカードで麻雀をするということです。普通これでも理解できないと思うので、まずは2つのゲームについてざっくり説明して、用いるカード・牌について確認しましょう。

初めにUNOについて。UNOは手札から様々な色の数字カードや特殊カードを出し、早く手札を出し尽くした人が勝つゲームです。用いるカードには、青赤緑黄の4色の0〜9の数字カードと、多種多様なワイルドカードがあります。今回ポイントとなるのは、1〜9の数字カードが、4色それぞれ2枚ずつ入っている点です。

次に麻雀について。麻雀は、4人のプレイヤーがテーブルを囲み、牌を引いて役を揃え、得点を重ねるゲームです。麻雀牌を用い、これには34種類の牌が4つずつあります。麻雀牌について、萬子、筒子、索子という1〜9の数字の書かれた数牌と、東南西北の四風牌と白發中の三元牌からなる字牌から成ります。

ここで気づいた人もいると思いますが、2つのゲームには、1〜9のカードや牌を用いるという共通点があります。このことから、UNOのカードを2セット用意すると、麻雀牌ができます。方法は簡単。まずUNOの数字カードを2セット分用意し、適当に萬子を赤、筒子を黄、索子を緑とすると、3種の数牌が4枚ずつ揃います。次に青の1〜4を東南西北、5〜7を白發中とすると、字牌も全て4枚ずつそろいます。これで麻雀牌の完成です。このUNO麻雀牌があれば、高校で「麻雀は賭けに繋がるから麻雀牌の校内での使用を禁ずる」という、支離滅裂で賭け事を強制によってしか止めることができない自らの教育力の無さを宣言するようなお触れが出ても、これはあくまでもUNOなので、休み時間や放課後に安心して麻雀ができますね。

しかし、今回の本題はここから。麻雀牌に数字カードの大半を持っていかれ、残されたUNOのカードについてです。UNO麻雀用にカードを集めた結果、4色の0と青の8・9、スキップやドローカードなどのワイルドカードが2セット分残されます。残されたカードを集めるとUNOワイルドカードスペシャルの完成です。このほぼワイルドカードで構成されたカードで本来のルール通りにUNOを遊ぶと地獄と化します。ひたすらドローカードが出されるわスキップカードをまとめて出したせいでターンが2周するわ様々な地獄が楽しめます。そして、今回この記事を書いたきっかけは、このワイルドカードだらけのUNOが本家で商品化されたためです。

普通のUNOでは刺激が足りなくなった人にちょうどいいと思います。

最後に、UNO麻雀の副産物だったUNOワイルドカードスペシャルは、どうやら時代を先取りする代物だったようです。

えぇっ!?1月ってもう終わるんですか!?

4週間ほど前に年が変わり、「今年は寅年!」といった話題をテレビやネットで見かけた。そして、その話題を見る度に「来年の干支なんだっけ?」「子丑寅卯辰巳だから卯年だな」と自己完結する。そして、「えぇっ!!来年もう卯年!?ワイ年男やんけ!!」と腰を抜かす。年齢の感覚を失っている。

去年の秋頃には、実際は2021年であるにも関わらず「オリンピック終わったから2020年も残り少しだな〜」と間違えたことがあった。暦の感覚も失っている。

成人した3年前、2019年の間は現実の時間の流れと体感での時間の流れがおおよそ一致していたはずなのに、ここ2年は現実の時間と体感の時間が全く合わない。この感覚のズレの原因として、自粛生活やオンライン授業の影響で外出機会が減り、家の中でゆったりとした時間を過ごすことが多かったため、体感の倍くらいの速さで現実の時間が進んでいたのかもしれない。あまり考えたくないが単純な老化という説もあるが、見なかったことにする。

さて、ここまでの流れから国語と算数で0点を取ったことがある人でもなければ大体私の年齢が分かっただろうが、私は西暦1999年生まれ22歳である。結局降りてこなかった恐怖の大王の代わりに生まれたかもしれない1999年生まれ、世間からは幼い頃からインターネットに触れてきたデジタルネイティブのZ世代だと言われているが、小学生の頃のゲーム対戦といえばオンラインゲームではなく、放課後誰かの家に集まり、DSのローカル通信やWiiで友達と対戦ゲームをしていたし、中学校に入ってすぐの頃は、少なくとも私の周りではスマホではなくガラケーを使っていた人が多く、割とアナログなものが身の回りに多く残っていた。ギリギリ20世紀生まれの我々の世代ってそんなにデジタルネイティブなのだろうか。

閑話休題。そんな1999年生まれ、他の年に生まれた人が持たない利点が一つある。それは「新年を迎えた時、西暦の下3桁が年齢と一緒」というものである。因みに、2000年生まれは誕生日から年越しまでの間は年齢と西暦の下3桁が一致している。そしてこのクソどうでもいいしょうもない利点、年齢と西暦のダブルチェックが簡単であったり、西暦か年齢のどちらかを覚えていればもう一方も簡単に導ける便利なものだと思っていたが、最近は年齢と西暦をどちらも忘れかけているため、全く意味のないものとなっている。悲しいね。

暑すぎる

大学で今日(昨日)の試験を受け終わり、さぁ帰ろうと講義棟の外に出るとまぁ暑い。室内で得た身体の涼しさは2分で消し飛んだ。講義棟から駅まで5分ほどで着くにもかかわらず、駅に着いた頃には汗だくだった。

二日前に出かけた時は「冬はクッソ寒くて耐え難いけど、今は別に耐え難いほどでもないし、これなら夏の暑さの方がマシだなー」とか呑気に考えていにもかかわらず、今日はその余裕が一切ない。梅雨明けの後の暑さは桁違いだ。

中高生の頃を思い返すと、当時はこんなに暑い中、学校から駅まで20分も歩いて帰っていた。当時の自分の身体の頑丈さが羨ましい。いや、今の自分が貧弱すぎるのかもしれない。中高生の頃のような週2〜3回の体育の授業は無いため、運動をする機会は無く、さらに今は、某感染症のせいで週の半分以上は自宅にてオンライン授業を受けているため、外を歩く機会すら無い。最近は課題で忙しく、筋トレもサボっているので、体力は皆無に等しい。こんな状態で梅雨明け後夏本番の暑さに耐えられるわけがない。

そもそも、体力以前に気温が高すぎるのではないだろうか。気候変動を調べたどっかの機関のレポートには、地球温暖化によって地上の温度が上昇し続けていると書かれている。今ですら夏は耐え難い暑さであるにもかかわらず、環境省が作った未来の天気予報の動画によると、数十年後、地球温暖化によってもっと暑くなるらしい。冗談ではなく死んでしまいそうだ。

うーん、ストップ地球温暖化!目指せ二酸化炭素排出ゼロ!