関東地方って朝明るくなるの早いよねっていう話

疫病が流行る昨今、徐々に空が明るくなる様子を体感する機会が増えた。外出自粛とオンライン授業の実施により、生活リズムを決める要因が変化した結果、私は今、早朝に寝て昼に起きるという周期で生活している。大学の校舎で授業が行われていた頃は、朝起きて大学に行き、授業が終われば家に帰り、日付が変わる頃、翌日に備えて寝るという生活だった。しかし、大学がオンライン授業を行い、しかもそのほとんどが非同期で配信され、いつでも好きな時間に授業を受けることができるようになったため、登校する、決められた時間割に従って授業を受けるという時間的制約がほぼ無くなった。学生にとって一番重要な大学の授業に定時性が失われた結果、私がどハマりしているVtuberの配信が早朝に終わることが多いため、自然と今のサイクルで生活するようになった。 話は突然ぶっ飛び、私が高校生だった頃、秋に修学旅行で九州に行った際、自分の住む関東地方と比べると、夕方の遅い時間になっても空が明るかったため、当たり前のことだが「本当に西日本では暗くなる時間が遅いんだな」と驚いた。東経130度の経線が通る九州地方は、日本の時間の基準である東経135度の経線より西にあるため、朝明るくなる時間と夕方暗くなる時間が遅い。その逆に、東経140度の経線が通る関東地方は、朝明るくなる時間と夕方暗くなる時間が早い。今の時期では、朝の4時を過ぎると徐々に空が明るくなり、夜の7時前には暗くなる。そのため、早朝まで起きている今、平常時は寝ている時間なため、体験することはない日の出を体験できるようになった。 そして、5時前、空が明るくなった後に寝ようとすると、自室のベッド脇の小窓から光が差すので眩しい。西向きの小さな窓ではあるが、大きな窓と異なり、雨戸が備えられていないので、外が明るくなると強い光が部屋に差し込む。ちょっとした日陰並みの明るさになるので、寝る時に少し眩しく感じる。もっと早く寝れば良いのだが、ここが九州地方なら良かったなと思ってしまった。

‪「植松理論」から脱却できた話‬

私は最近まで、多くの人が「無茶苦茶だ」と言った相模原障害者施設殺傷事件の犯人の考え方、いわゆる「植松理論」に賛同していた。その背景に私の小学生の頃の経験がある。

私の通った小学校には特別支援学級言語障害発達障害通級指導教室があったので、障害者と接する機会が多かった。私はその時、意思の疎通ができないなどの理由から多くの嫌なことを経験し、そのことから障害者に対して嫌悪感を持っていた。生産性のない障害者は社会から抹消すべきだとも考えていた。なので同じような考えの植松理論に対して疑問や違和感は全く感じていなかった。

しかしここ数ヵ月、大学で倫理の授業を受けたことで構築されてきた私の倫理観と、賛同していた植松理論の間に矛盾が生じてきたことで何が正しいのかわからなくなっていた。

まず、平等に与えられた人の命を奪うことは正しいことではないという考えは一般的なものだ。この考え方を元にして、平等に人として命を与えられた存在である以上障害者を社会から排除してはいけないと考えていた。

それに対し、植松理論は生産性のない障害者の排除を推進する考えだ。‪その根拠と思われる犯罪と刑罰の考えでは、理性的な自律した存在(人格)が尊重され、理性的な判断を基に行ったことへの責任として罰を受けるので、正常な判断ができて自分の行いに責任を持てる人格のみが裁かれるべきだと考えられている。そして植松理論では、知的障害を理由に罪に問われなければ、障害者が人として扱われてないことの証明になるので、人ではない障害者を排除することは問題ないと考えられている。‬

‪私はどちらの考えも筋の通った考え方として考えていたので、二つの考えの障害者の扱いの矛盾で悩んだ。‬

‪そんな中、ある日の倫理の授業で「完全に自律した人格とそれに準ずるもの」という考え方を聞き、私の中にあつた矛盾が解消した。この考えでは理性を持った自律的な存在とそれに準ずる存在があるという考え方から、乳幼児のような理性を持たない存在も社会から人として承認される。これにより完全に自律した存在ではない障害者も人格に準ずる存在と考えられ、社会で保護する必要があると考えられる。そして、障害者は理性を持たないから罪で裁けないが、人格に準ずるものであるから社会から排除されることはないと考えられる。この考えは障害者を保護する根拠と、知的障害を理由に裁かれないことが障害者排除の根拠にはならないことを説明できているので、私の倫理観と植松理論の矛盾が解消した。‬

‪また、今社会で障害者を保護することに賛成することで、将来なんらかの理由で重い障害を負ったり認知症になり介護されなければならなくなった際、社会から不必要な存在として切り捨てられるリスクを回避することができる。これは利己的な考えかもしれないが、自分が弱者になってしまった場合に自分を守ることができなくなってしまうので、弱者を社会で保護することに賛成することは重要だと思う。‬

‪昔の経験から意思の疎通がままならないような障害者は苦手なので、自分から積極的に障害者と接しようとは思わないが、社会から排除してしまう考えは危険だと思うようになった。‬

性的少数者の人の考えを全肯定も全否定もしない話

私は、自分の尊厳を脅かされるようなものでなければ、他人の考えや嗜好を否定すべきでないと考える。そのため、マイノリティの人々の考えについて全肯定はしていないが、否定的な考えも持っていない。

人間は個体に別れて存在する上に意思伝達手段が言葉しかなく、その言葉も全てを表せるわけではないため、伝えられることには限界がある。したがって、他人のことを理解するとき、言葉を通じてある程度は理解できても完全に理解することは不可能だ。ただ、完全に理解することができないからといって初めから理解しようとせずに排除することはその人を尊重していないし、それと同等に、全てを理解していないのに全肯定botになることも相手を尊重できていないと考える。

そのため、自分とは異なる考えや自分が持たない考えを持つ人と接した時、努力して理解できた範囲では肯定したりして自分の立場を示し、理解できない部分は肯定も否定もせず中立の立場になることが大切だと思う。

この考えから、私はマイノリティの人のことをよく知らないので全肯定はしないし、少し知っているからこそ否定もしない。ゆえに、学校帰りに女子同士で腕を組んでいても、女子が第一人称として「ぼく」や「俺」を使っていても、男子がスカートを履いていても、それは本人の自由だと考える。