‪「植松理論」から脱却できた話‬

私は最近まで、多くの人が「無茶苦茶だ」と言った相模原障害者施設殺傷事件の犯人の考え方、いわゆる「植松理論」に賛同していた。その背景に私の小学生の頃の経験がある。

私の通った小学校には特別支援学級言語障害発達障害通級指導教室があったので、障害者と接する機会が多かった。私はその時、意思の疎通ができないなどの理由から多くの嫌なことを経験し、そのことから障害者に対して嫌悪感を持っていた。生産性のない障害者は社会から抹消すべきだとも考えていた。なので同じような考えの植松理論に対して疑問や違和感は全く感じていなかった。

しかしここ数ヵ月、大学で倫理の授業を受けたことで構築されてきた私の倫理観と、賛同していた植松理論の間に矛盾が生じてきたことで何が正しいのかわからなくなっていた。

まず、平等に与えられた人の命を奪うことは正しいことではないという考えは一般的なものだ。この考え方を元にして、平等に人として命を与えられた存在である以上障害者を社会から排除してはいけないと考えていた。

それに対し、植松理論は生産性のない障害者の排除を推進する考えだ。‪その根拠と思われる犯罪と刑罰の考えでは、理性的な自律した存在(人格)が尊重され、理性的な判断を基に行ったことへの責任として罰を受けるので、正常な判断ができて自分の行いに責任を持てる人格のみが裁かれるべきだと考えられている。そして植松理論では、知的障害を理由に罪に問われなければ、障害者が人として扱われてないことの証明になるので、人ではない障害者を排除することは問題ないと考えられている。‬

‪私はどちらの考えも筋の通った考え方として考えていたので、二つの考えの障害者の扱いの矛盾で悩んだ。‬

‪そんな中、ある日の倫理の授業で「完全に自律した人格とそれに準ずるもの」という考え方を聞き、私の中にあつた矛盾が解消した。この考えでは理性を持った自律的な存在とそれに準ずる存在があるという考え方から、乳幼児のような理性を持たない存在も社会から人として承認される。これにより完全に自律した存在ではない障害者も人格に準ずる存在と考えられ、社会で保護する必要があると考えられる。そして、障害者は理性を持たないから罪で裁けないが、人格に準ずるものであるから社会から排除されることはないと考えられる。この考えは障害者を保護する根拠と、知的障害を理由に裁かれないことが障害者排除の根拠にはならないことを説明できているので、私の倫理観と植松理論の矛盾が解消した。‬

‪また、今社会で障害者を保護することに賛成することで、将来なんらかの理由で重い障害を負ったり認知症になり介護されなければならなくなった際、社会から不必要な存在として切り捨てられるリスクを回避することができる。これは利己的な考えかもしれないが、自分が弱者になってしまった場合に自分を守ることができなくなってしまうので、弱者を社会で保護することに賛成することは重要だと思う。‬

‪昔の経験から意思の疎通がままならないような障害者は苦手なので、自分から積極的に障害者と接しようとは思わないが、社会から排除してしまう考えは危険だと思うようになった。‬